わたしの偏愛ストーリー

料理研究家・植松良枝さんが「旬の香る家庭料理」にこだわる理由

SPECIAL HOLICS編集部 2019.5.3

旬の食材を使った四季に寄り添う家庭料理を提案する人気料理研究家の植松良枝さん。アジアやヨーロッパをたびたび訪れては、その土地の食文化に触れ、東京近郊に持つ菜園では野菜やハーブを育てるなど、素材そのもののおいしさや個性を大切にする活動で注目を集めています。料理研究家になる前の歩みとともに、植松さんの考える「季節の移ろいに寄り添う食生活」、ライフワークである「野菜作り」や「旅」についてもお話を伺いました。

目と心に響くレシピで、食と旬の“おいしい関係”を伝えたい

料理研究家・植松良枝(うえまつ・よしえ)さんの考案するレシピには、にぎやかな家庭で育ったゆえのパワフルで温かみのあるおいしさ、旅行先の海外で出会った新鮮なアウトプット、そして四季のある日本ならではの旬のおいしさがギュッと詰まっています。旅に、仕事に、野菜作りに…...と、毎日がインスピレーションとアイデアでいっぱいの、彼女の躍動的な生き方に迫りました。

行事食も、おやつも。“手作りが当たり前”の家庭で育ちました

世界各国から集められた植松さんの料理に欠かせない調理器具。へらは、スペインのツゲの木、ハワイのコアの木、スウェーデンのアルミでできたものなどさまざま。その他にも、フランス製のおたま、イタリア製のパスタレードルなど。どれも植松さんが所蔵する愛用コレクションの中から選ばれた精鋭たち。「ひとつひとつ集めていると愛着が湧いてきます」

ーー植松さんは、3世代7人家族で育ったそうですね。食卓はにぎやかだったのではないでしょうか。

そうですね。専業主婦の母と祖母が台所に立ち、食卓にはいつもおいしい手料理が並んでいました。毎日の食事はもちろん、行事食やおやつまですべてが手作り。我が家の畑で取れたざるいっぱいの絹さやの筋を、テレビを観ながらみんなで取ったり、製麺機があったので、そばやうどんは祖母が手打ちしたものを食べていました。今思うとなんとも贅沢な食卓でした。

ーーそんな素敵な環境で育ったのなら、料理に目覚めるのも早かったのでは?

料理自体は大好きだったのですが、母と祖母、2人も台所に立っているので“料理担当”は定員オーバー(笑)。なので、私はお菓子を作ることにしたんです。

うちは3姉妹だったので、母が焼いてくれるホットケーキはフライパンサイズが基本。果物がたくさん入ったゼリーだってそう。ぜんぶ大勢で切り分けて食べるスタイルだったんです。祖母は、かりんとう、カルメ焼き、蒸しパンなどをよく作ってくれて、どれもおいしくて大好きだったのですが、やっぱり子供心としては、デコレーションケーキやシュークリームに憧れがあって。「じゃぁ、私が作ろう!」そう思って、お菓子作りの本を見ながら作り始めました。

小学校の高学年くらいだったかな。バレンタイン前のチョコレート作りの会場は我が家。友だちを呼んでみんなで作ったり、クレープパーティーもしたり。荒れ放題のキッチンを見ても、母と祖母は怒ることもなく、自由にやらせてくれていたように思います。

ーー当時の将来の夢は何だったのでしょう?

小学校の卒業文集には、堂々と「専業主婦になりたい」と書いていました。そして、「料理を日々の生活に活かしたい」とも。母や祖母の姿を見て、専業主婦って楽しそうだと思ったんでしょうね。

その後は女子大に進学。3年生になると周囲は就職活動に本腰を入れている中、私はといえば、企業に就職するということにいまいちピンと来なくて。当たり前のように進むつもりだった道が「違う」と気付いたとき、思ったのは「やっぱり料理が好き!」ということでした。

ーーまさに心の声ですね。それで料理の道へ?

そうです。料理人ではなく料理研究家になりたかったので、まず「ジャパン・フードコーディネーター・スクール」へ通うことにしました。そこでは、食の現場で働くための知識や技術を教わります。週2日だけだったので、並行して、愛読していた某料理雑誌の編集部でアルバイトも始めました。とくにスタッフ募集の記事が出ていたわけではなかったのですが、編集部に直接電話をかけたら「アンケート集計の短期アルバイトなら」ということで働けることに。その後、欠員が出たため運良く料理班に入ることができたんです。

ーー素晴らしい行動力ですね。

3年半くらい経った頃、これまでに得た知識を活かしたくなり、ある一軒家レストランに転職しました。インテリアや建築に興味のあった私は、その店の料理を食べたことがなかったのに、素敵な外観に惹かれて。ここもまた直接電話をかけました。

ーーそこではどんな仕事を?

キッチンだけで5〜6人いるような大きなレストランだったので、調理のすべてに関わることはできなかったんですよ。私はサラダ場といって前菜とサラダを作るセクションを担当。修行のようなハードな日々でしたが、とにかく楽しかったです。

 世界を旅しながら集めたという器。上はイタリア、スペイン、フィンランドなどヨーロッパで、下はベトナム、台湾、中国で買ったもの。「旅先で見つける器は、まさに出会い。アンティークショップや、リサイクルショップなどを巡り、ピンときたものだけを持ち帰ります」

ーー次の転機が訪れたのは?

一軒家レストランの厨房で働き始めて1年くらい経った頃、27〜28歳くらいだったかな。代官山のカフェで働く友人から、「良かったら、こっちで一緒にやってみない?」と声をかけてもらったんです。どうやらシェフが辞めたらしく、新しいメニューも考えていいからと。「好きなことをやらせてもらえるなら!」と思い、思い切って移ることにしました。

ーー突然の大抜擢ですね! メニューを考えるところからなんて、気合が入りそう。

まずはランチメニューを2種類考え、さらにカフェメニューのスイーツも考案。そしたら、どんどんやりたいことが増えてきて、オーナーに「ケータリングがやりたい!」と思いつきで言ってみたら、「いいよ」と言って、持ってきてくれた仕事が、某有名ブランドのオープニングパーティー。いきなりの大仕事に焦りながらもこなしていくうちに、ケータリングの仕事がどんどん舞い込んできて大忙し! カフェに泊まり込みながら仕込みをして、朝になったら現場に行くというハードな日々が続きました。

そんなとき、フィンランド政府観光局の方がお店にいらして、「1ヵ月間限定で、ここを北欧のカフェにしてもらえませんか?」と打診されたんです。空間もメニューもコンセプトを持って運営しているから、普通は断るじゃないですか。でもオーナーや店長があっさり受け入れてしまって……。「来月から北欧カフェになるからよろしく!」と。

ーーということは、もちろん北欧系のカフェメニューに変わりますよね?

もちろん。「誰が考えるの?」「もちろん私だよね」みたいな感じで、やるしかなかったですよね。観光局の方が持って来られた文献をヒントに、北欧料理の試作・開発をスタートしました。そうこうしているうちに北欧のカトラリーやグラスが運ばれて、椅子が入れ替わり、あっという間に北欧仕様のカフェに生まれ変わりました。ちょうどその頃、店がラジオで紹介されたこともあり、毎日が長蛇の列。休む暇なく早朝から仕込みをし、夜遅くに帰宅。そんな毎日を送っていたらすっかり体力を消耗してしまって。「もうこれ以上カフェでやれることはないんじゃないか」というところに行きついてしまい、その場を離れることにしたんです。

ーーその後、アシスタントをして、料理研究家に?

そうですね。カフェで考案したメニューは、雑誌の取材なども受けていたので、それらのスクラップを持って料理雑誌の編集部に行き、話を聞いてもらいました。

スーパーで私たちが見ている野菜って、ほんの一部の顔でしかないんです

「ちょっとしたおかずと白いごはんに梅干しだけでもおいしそうに見える」というまげわっぱ。手前の長細いものは、柴田慶信商店、その右手にあるものは栗久のもの。奥に重ねられているのは、台湾で購入したもの。

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