好きを仕事につなげたひと

ココナッツオイルで年商7億!荻野みどりさんの体当たり仕事論

SPECIAL 2018.6.29

オーガニック食品ブランド「ブラウンシュガーファースト」を立ち上げ、5年間で年商7億円の企業に育て上げた起業家・荻野みどり(おぎの・みどり)さん。自身の子育てから「人は食べたものでできている」ということを体験し、「子どもに食べさせるものの選択肢を増やしたい」という思いで会社を設立。何事もスパッと一刀両断で取捨選択をする彼女の“自分らしい”キャリアを築くまでの道のりと、これからの生き方とは?

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思い立ったら即実行。「ワクワク」を求め続けるサステナブルなビジネス

「ブラウンシュガーファースト」のココナッツオイル。この、手描きタッチのイラストがキュートなラベルに見覚えのある人も多いのでは?

今回登場するのは、ココナッツオイルブームの火付け役「ブラウンシュガーファースト」代表の荻野みどりさん。年商7億円とも言われる事業を展開する傍ら、自身は「贅沢をそぎ落として、ミニマルに生きることも大事」と月10万円で生活する、常識に捉われないユニークなアイディアの持ち主なんです。

高校時代のフレンチレストランでのアルバイトに始まり、ショップスタッフ、社会人大学生、プロバイダー会社の営業、OL……とその時々に「やりたいこと」だけを優先させてきた荻野さんが、ココナッツオイルと出合ったのは、29歳で娘さんを出産してから。さまざまなお仕事遍歴を経て、出合うべくして出合ったココナッツオイルの存在で未来が切り開かれた、彼女らしい生き方に迫ります。

「25歳になったらお嫁に行くのが当たり前」と言われることに、ずっと疑問を感じていました

ーー子どもの頃に抱いていた将来の夢は?

それがなかったんです。幼い頃から母や叔母など周りの大人に「25歳で結婚して子どもをたくさん産むことが女の幸せだ」と言われてきたので、仕事で自己実現をするという発想が一切ありませんでした。

母や叔母はみんな専業主婦でしたし、英会話やパッチワーク、料理などの教室を開いていました。専業主婦をしながら教室の先生をするというのが当たり前の環境だったんです。

ーーアルバイトをしたことは?

“食べること”が大好きだったので、高校時代はフレンチレストランの見習いシェフとしてアルバイトをしていて。シェフになりたいと思っていた時期もあったのですが、調理系の専門学校へ進みたいという希望は当然、親から認められることもなく。また、あるすっごく晴れた日に黙々と人参を切っていたら、「私はごはんを作るんじゃなく食べたいんだ!」と思って、すっぱり辞めました(笑)。

ーーその後の進路はどのようにして決めたのでしょう?

雑誌のスナップページの職業欄に「エディター」とか「スタイリスト」とか書かれいてるじゃないですか? ある日「あ、この人素敵だな」と思う人がみんな「バイヤー」という肩書きなのに気がついて。お仕事内容は分からないながらも、「バイヤー」という仕事に惹かれ始めたんです。あと海外ドラマの影響で海外での生活にも憧れていたんですよね。それで、東京の服飾専門学校かアメリカの服飾大学に行こうと思ったのですが......。

ーーご両親に反対されたんですね。

はい。それで渋々、地元の短大の被服科に入学しました。ものすごい妥協案でした。

それでも海外に行きたい思いを諦められず、両親に頼み込んで、1年生の夏休みに語学留学という口実で1ヵ月間だけ渡米したんです。NYではほとんど学校に行かず、クラブや美術館に行ったりして、アパレル業界へ進むコネクションを探していました。勝手に「Fashion Institure Technology」の高校生向けの入学説明会に参加したりして(笑)。

ーー何かを「得たい」という思いがすごかったんですね。

はい。思い返せばこの頃から、ツテのないところに飛び込んで何とかするのが得意でしたね。そんなことをしていたら1ヵ月なんてあっという間に過ぎてしまったのですが、完全に新しい世界が開けてしまって。「また来たい!」という思いを抱えつつ、ひとまず帰国したんです。

ーー短大だと帰国後すぐに就職活動が始まったのでは?

2年になると卒業制作が始まるんですが、その内容がウエディングドレスの制作だったんです。バイヤーになりたい私にとってはギャップがありましたし、まるで「卒業したらお嫁に行きなさい」と言われているようで我慢ならず、退学を決意しました。退学する少し前から、アパレルのセレクトショップでアルバイトを始めていて、そこの社長に「学校を辞めて、バイヤーになれるよう一生懸命働くので社員にしてください!」と頼み込んだんです。それでOKをいただいたので、両親にはもう仕事は決まっているという意思表示とともに、退学したい旨を伝えました。

ーーその店ではどんなお仕事を?

そこは6万円もするイタリアブランドのパンプスとかラグジュアリーな商品をセレクトしているお店で、しかも販売力のある先輩ばかりだったので、とても勉強になりました。ある日、社長から直々に、アウトレットの店舗に行くよう指示を受けたんです。そこでは他メーカーの型落ち品を安く仕入れて販売しているんですが、どうやら売り上げがイマイチだったらしく、私に起爆剤になってほしかったようです。実際、そこの売り上げを一人で18倍に伸ばしたんですよ。

ーーすごい!  具体的に何をされたのでしょう?

もちろん、先輩から接客を学んだことも大きかったですが、お客様のコンプレックスや購入内容をカルテ化したことが提案力につながりました。アウトレットショップなのに客単価10万円くらい売っていましたから。

ーー会社からもかなり評価されたのではないでしょうか。

販売で成果をあげた後、社長に「バイイングに同行させてください!」と頼み込んで、いちばん大きな仕入れ額を任されているバイヤーのアシスタントにつけてもらいました。1泊2日で8、9件の展示会を精力的にまわるなど、仕事自体にはやりがいを感じたのですが、あるとき、とある先輩がポロッとこぼした給料への不満に、若かった私は衝撃を受けたんです。

自分の10年後を突き付けられた気分でした。その後、もっと外の世界を見たいと、両親には「1泊2日で東京に行ってくる」と嘘をつき、家出して上京しました。これが21歳のときです。当時は錦糸町のシェアハウスに住んでいました。その後もシェアハウスを転々としながら、アパレルの販売やレストランのウエイトレス、あとはパチンコ屋などかけもちで働きました。

4つの大学で学んだ社会学や政治学を通して、物事を俯瞰して見るようになりました

ーーシェアハウスでの生活はどうでしたか?

とても楽しかったです! 外国の方が多かったので、海外のことを知ることができましたし、英語も上達しました。ただ、30代、40代の日本人の人たちと話していると、みんな楽しそうに生きているんだけど、将来的な不安を抱えている方が多くて......20代の過ごし方がいかに大切かを痛感しました。そして、「今すぐ年収アップを狙うなら、ホワイトカラー=頭脳労働に就いたほうがよさそうだ!」と気づき、まずはパソコンのスキルを身につけようと、秋葉原の電器店のパソコンコーナーで販売員の仕事を始めました。そのときの自分にできたのは、唯一「販売」という仕事だったので。

ーーすごい転身ぶりですね。

パソコンを売りながら学ぶうちに、気がつくと自分でパソコンを作れるところまで知識がついてしまって(笑)。ある日、その電器店に出入りしていたインターネットの回線業者の方からスカウトされたんです。販売よりも営業職のほうがホワイトカラーに近づくと思って転職し、順調に営業成績を伸ばして、月に70万円くらい稼いでいました。

ーー福岡のセレクトショップでの経験が活かされたんでしょうね。プロパイダーの会社では何年くらい?

1年くらいで辞めました。その後、自分が世の中のことをあまりにも知らないことに気づき、派遣OLをしながら夜間と週末は放送大学へ通うことに。社会学に、政治経済、天体物理学など一般教養を多岐にわたって学ぶうちに、私が学びたいのは社会学だと気づいて、社会人入試で駒澤大学に入学しました。

ーー仕事と学業の両立、大変だったのでは?

学校は平日だったので、OLを辞めてヨガスタジオで受付をしながら通っていました。駒澤大学では社会学を専攻していたんですが、今度は、目の前の出来事を分析はできても自分で解決するところまでには至らない社会学に物足りなさを抱き始めたんです。それを機に、経済学や政治学に興味を持ち始めて、1年生の夏休みに国連の広報センターのインターンシップに応募したら、合格したんです。

ーーそこではどんな経験を?

グローバルリーダーの卵の方たちと一緒に過ごす日々でした。そこでは国際政治の現場を垣間見られたと同時に、ここから先、私がどう足掻いてもこの世界では生きていけない、と気づいて。私は商売を通じて世の中に何かを生み出したいんだと感じたんです。そして卒業後、今度は慶應義塾大学の通信課程へ入学しました。

ーーそこではどんな勉強を?

通信教育課程で国際政治の基礎を学びました。パワーの均衡で政治を理解することを知ったり、地政学を学んだりと、あらゆることを吸収できた気がします。でも1年で辞めました。高校も何度も辞めそうになったし、短大も途中で辞めた私。ここまでくるとネタですね(笑)。4つの大学に全力投球で1年ずつ通ったので、卒業したも同然(!?)と開き直ることにしました。

1ヵ月15万円あればいい。これで十分という最低限を見つけたほうが絶対に幸せ

「通勤だけじゃなく、営業先にもコレで行きますよ」というキックボードは愛用歴7年。「折りたたむとタクシーやバスにも乗れるし本当に便利なんです」

ーー“スーツケース1個生活”をされたことがあるそうですが、そのきっかけは?

インターネットプロバイダーの仕事をしていたとき、月70万ほど稼いでいたと先ほど言いましたが、何でも買える状況=幸せじゃないと思ったんです。ある日、カフェで隣の席から聞こえてきた「こないだベンツ買ったんだよね」とか「今度俺、船を買おうと思うんだよね~」という不毛な自慢話にはっとしたんです。「この人たち、最終的に宇宙まで行かないと満たされないな」と。

ーーいくらお金があったところで、欲は生まれても幸せは生まれないと。

はい。足りない、足りないは不幸だと思ったと同時に、これで十分という最低限を見つけたほうが幸せだと感じて、身のまわりにあるものをすべて捨てました。電子レンジも炊飯器もいらない。でも鍋一個と冠婚葬祭に使える小綺麗なワンピースは必要。こういう風にミニマムにしていくと、持ち物すべてがスーツケースひとつにまとまったんです。

ーーす、すごい。ちなみに1ヵ月にかかる生活費は?

当時は1ヵ月10万円で生活していましたね。今は娘がいるのでスーツケースは2.5個分、生活費は15万円くらいでしょうか。

ーーご結婚されたのはいつ?

25歳のときですね。結婚したことも私にとって大きな転機でした。それまでは誰の世話にもならず1人で生きていこうと決めていたんですが、「お願いだから結婚しなさい」と大好きな祖母がわざわざ上京してきて......「こりゃしないとまずいな」となり、仕事絡みで知り合った彼と入籍しました。

ーーその後はご両親の望み通り専業主婦に?

いいえ。結婚当時からお財布は別と思っていました。夫に依存したくなかったので、夫の給料も知らなかったくらいです。読者モデル的なことをしていましたし、妊娠中も料理教室やアクセサリー教室をやったり、友人のアパレルブランドの展示会を手伝ったりと、自分の分は自分で稼いでいました。どうしても足りないときは、夫にお金を借りて助けてもらいもしましたが。

ーー料理教室もされていたんですね。

はい。実はそこで作っていたお菓子がとても好評で、今の仕事につながるきっかけになったんです。ちょうど妊娠8ヵ月だった頃に、東日本大震災が起きたんですね。それ以降、「子どもたちに一体何を食べさせたらいいのだろう」と食に対する不安を感じ始めたんです。

出産からしばらくした頃、友人の誕生日会でケーキを食べたり、ホイップたっぷりのコーヒードリンクを飲んだんですね。そしたら娘が2週間便秘になり、謎の湿疹まで出たんです。

ーー母乳が原因に?

そうなんです。それで「人は食べ物でできている」と身をもって感じ、世の中のお母さんたちが「もっと子どもに食べさせたい」と思えるものの選択肢を増やしたいという気持ちにつながっていきました。そうして始めたのがお菓子販売。お菓子教室をやっていた母にレシピを相談して、焼き菓子を売ることにしました。お菓子づくりは母のネットワークでお付き合いのあるお店にお願いして、私は娘をおんぶしながらファーマーズマーケットで販売していました。

ーー具体的に何を作っていたんでしょう?

クッキーやマフィン、ウーピーパイです。材料は家庭で手に入るものを使用すること、油はバターで、お砂糖は白砂糖を使わない、というのがルール。ただ、ファーマーズマーケットの出展料がかかることもあり、スーパーで仕入れた材料でお菓子を作っている限り売れ行きは順調でも儲けが出ない、という状況が続いていました。

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HOLICS編集部

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