好きを仕事につなげたひと

18歳で渡米。プティローブノアー阿部好世さんのおしゃれ情熱論

SPECIAL 2018.3.23

クラシックでありながら、洗練されたデザインで多くの女性を魅了するアクセサリーブランド「プティローブノアー(petite robe noire)」。今回登場するのは、デザイナーの阿部好世さん。語学と服飾を学ぶべく、18歳で日本を飛び出しNYへ渡ったその瞬間から、すでに未来が決まっていたように、24歳という若さでブランドを立ち上げた阿部さん。ニューヨーク時代を懐かしみながら、ブランド立ち上げまでの経緯を語ってくださいました。

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18歳で渡米。デザイナーへと導いたのは、留学先の蚤の市で出会ったコスチュームジュエリーだった

2009年、オンラインショップからスタートしたアクセサリーブランド「プティローブノアー(petite robe noire)。

好きな英語と服飾を学ぶため、高校卒業後に単身渡米。学生時代をアメリカで過ごしたデザイナー阿部好世さん。帰国後は、販売員やPRをはじめ、さまざまな仕事を経験したのち、「大好きな旅をしながら、大好きな蚤の市で、大好きな古いものを買い集め、それを日本で売れたらいいな」という夢を、実現。25歳という若さで、東京・恵比寿にショップをオープンさせた。

今回は、そんな阿部さんに、ニューヨーク時代のこと、ブランドにまつわることからデザイナーとしての在り方。そして“好き”を仕事にできた理由を伺いました。

「英語を学びながら、服飾の勉強もすればいいんだ!」と、ひとりアメリカへ

ーー阿部さんが、おしゃれに目覚めたのはいつでしょう?

中学生くらいかな。毎月、大好きだったファッション誌の発売日になると本屋へ走り、その一冊を1ヵ月かけて熟読して......。周りに山しかない新潟の田舎で生まれ育ったので、それが唯一の楽しみでした。

ーーその頃、将来の夢は何だったのでしょう?

いわゆる夢ではないんですが、当時の私は、「英語を勉強したい」という思いがすごく強かったんですね。理由は、単純。海外ドラマに影響されて(笑)。

友だちの家に行くにも、すごく離れているほどの田舎だったのもあり、情報源は雑誌やテレビがすべて。アメリカドラマの自由で開放的な暮らしにすごく憧れていたんですよね。あと、やっぱりおしゃれも大好きだったので、「アパレルの仕事に就きたいな」と、ぼんやりと思っていました。

ーーなるほど。憧れの都会暮らしは東京ではなく、阿部さんの中では海外だったんですね。

そうですね。高校に進学したら、真っ先に留学したいと思っていたので、ひとまず英語教育にいちばん力を入れている学校へ進学。夏休みを利用した短期留学を3度経験しました。

そして、いざ進路を決めるとなったとき、東京の服飾専門学校へ行きたいと思ったのですが、アパレル業界に進むことに関して、両親は猛反対で。そしたら、「大学で英語を学びながら、服飾の勉強もすればいいんだ!」と思って、アメリカ留学を決めたんです。

ーー高校生にしては、思い切った決断でしたね。英語を勉強するのなら、とご両親は留学に賛成を?

はい。でも、密かに抱いていたアパレル業界への道は内緒にしていましたけどね(笑)。

自分が好きで選んだ道を全うしなくては!使命感のような思いが強かった

アメリカ留学中、ペインティング科の先生の自宅にて撮影された当時の阿部さん。

ーー留学先はアメリカのどちらに?

はじめはサンフランシスコへ。自分の意思というよりも、留学エージェントがすすめる通りにしたというか。ビザの取得から進路の手続きまで、本当に何もわからなかったので、身を任せるしかなかったんです。

ーーサンフランシスコでは、どんな学校へ?

まず語学をしっかり身につけないと、行きたい大学のテストに受からないので、大学の付属の英語学校へ行きました。そして学校へ通いながら、将来的にアパレル業界で働くとなると、デザイナーなのかパタンナーなのか? 自分の適職とは何かを探っていました。

でもサンフランシスコという町は、いわゆるアメリカの有名ブランドを扱う大手の会社が主流なんですね。なので、私がやりたいデザインより、マーケティングを学ぶのに向いていて。また、どちらかというとファッションというよりもグラフィティカルチャーの空気のほうが根強くて。服飾デザインを学びたい私には、ちょっと違うかも......と感じて、渡米して3ヵ月くらいしか経っていませんでしたが、ニューヨークへ行くことに決めました。

ーーネットもほとんど普及していない時代。どのようにニューヨークへ?

そのときいちばんの情報源は、本やフリーペーパーでしたね。それでも分からないことは、知り合いに聞いたりして。ひとり暮らしもはじめてでしたし、とても孤独な状況の中、周りに日本人が多く何でも聞ける環境だったのはとてもありがたかったです。

ちょうどその時期に、ニューヨークへ引っ越した知り合いがいて。たった1度しか会ったことがなかったんですが、その人の家にひとまず居候させてもらうことになったんです。

アメリカで買ったオイルパステル。好きな色はグリーン。これは小さい頃からずっと変わりません。

ーーニューヨークでは、どんな暮らしを?

居候をしていた部屋を出たあとは、クイーンズのアストリアとう町で暮らしていました。ポーランド人のおばさんが持っているアパートの一室を385ドルで借りて。ひとり暮らしの大変さを身にしみて感じていましたね。スーパーで買うベーグルも、プレーンより25セント高いシナモンアップル味を買うのにめちゃくちゃ悩んだり。

ーー当時通っていた大学は?

ニューヨークはサンフランシスコと違い、行きたい学科のある大学がたくさんありました。でも私は、学費や生活費を出してくれている両親に負担をかけたくないという思いが強くて。勝手に学費の安い大学を選んで入学しました。

お金をかけずに単位が取れて、しかも自分がやりたいことに結びつく時間の使い方を考えたんですよね。

ーー学校ではどんな勉強を?

英語、そして服飾だと基本的なソーイングやパターン、ドローイングやスケッチ、立体図形などです。

ーーはじめてのひとり暮らしをニューヨークでなんて、孤独はなかったですか?

もちろん寂しさや孤独はありました。でも、来たからには、しっかり勉強をがんばらないと! 自分が好きで選んだ道だから、ちゃんと全うしなくては! という、使命感のような思いが強くて、孤独を感じる間もなく、“生活すること”に一生懸命でしたね。

ーー自立心が強かったのでしょうか。

よく言えばそうかもしれません。人に頼りすぎることなく、自分のことは自分で決めて行動することを、心のどこかで決めていた節がありました。

何の術もない私に、“何ができるのか”を常に模索する日々でした

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HOLICS編集部

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